幼かった頃に、親戚のおじさんが開拓団の帰還者だと教えられたことがありました。
おじさん夫婦は生き延びるために幼い子供は家に残したまま帰国せざるを得なかったと聞きました。
真偽のほどはわかりませんが、わが子を見捨てての逃避行という悲惨さは今でも胸に突き刺さります。
〈中島森利さん〉
久しぶりにホームページを開いたところこのイベントの計画を知りました。私の母は満州で生まれ終戦前に帰国し、結果的に家族で唯一の帰国者となりました。別々にですが母も私も数年前に記念館を訪問させていただいたことがあります。当日は、母と共に視聴させていただきたいと思います。よろしくお願いします。〈濱奈美さん〉
満蒙開拓団。その言葉を知ったのは中学時代です。でも、中高の授業は戦前戦時中は飛ばされていました。戦時中の事に興味を持ったのはふたりのイーダを読んだ小学生の頃。その頃はネットなんてありませんから、図書館で本を探し見る程度。大きくなるにつれ、忘れてはいないけれど、自分で調べる時間が減っていきました。
再び、満蒙開拓団に触れるきっかけはミュージカル李香蘭でした。
それから十数年後、仕事で知り合ったふたりの女性から話を伺う機会がありました。
満州に渡った方でもお父様が満鉄にお勤めだった方の娘さんは敗戦の数ヶ月前に日本に戻り、満州に残らなくてはならなかった元看護師は、どうなるか怖かったけれど中国人医師が守って下さり何とか帰国。
おふたりとも再び中国に行かれ、育った家、勤めていた病院がそのまま残っていたそうです。もっと事細かに伺っておけばよかったとも思いますが、おふたりが話したい部分だけを語っているのかもしれないと躊躇ってしまいました。
多くの大陸に渡りいのちを亡くした方への祈り、そして帰国された方と想いを共有出来る場に参加させてください。〈山元寿美代さん〉
母方の祖父母は満州で出会って結婚したと聞いています。あまり話を聞くことができないまま亡くなりましたので、体験された方々のお話の中に勝手に祖父母の姿を浮かべて聞いています。
祖父母は、祖母の実家のある青森県で暮らしていましたが、祖父の実家があったのは阿智村智里、満蒙開拓平和記念館の近所で、縁を感じます。祖父母の家のアルバムには「伊拉哈会」というものがありました。若い頃は夫婦ででかけ、慰霊祭に参加したりしていたようです。祖父は、シベリア抑留も経験しています。帰国後に伯母と母が生まれています。
満州やシベリア抑留の話は全くしなかった祖父母ですが、よく言われていたことは、「何も無いところから頑張ってこの家を建てたんだ」ということでした。また、祖母の作る水餃子は、とても美味しく、母から私に伝えられた家庭の味です。〈田中由紀さん〉
中国残留婦人となった祖母が残してくれた戦争の記憶を呼び覚ますと同時に、世代、そしていつか国境を超えてその記憶をつないで行きたいです。〈巻口清美さん〉
ここ何年か、かかわりあっている満蒙開拓団の歴史。一度自分の足で、満州の大地を踏みしめ、何が見えるのかぜひ体験してみたいと思っています。〈フックス真理子さん〉
祖父が満鉄の株券をかなりの額買っていたこと、それを父が最近まで持っていたこと。母の弟が満映に入ろうとして一族あげての反対にあったのと、実力不足でかなわなかったこと。こうした間接的なこと、どちらかというと満洲(国)の華々しく宣伝された側面を父母から聞かされたくらいです。〈江間淳さん〉
1946年生まれの父が引揚者だということで、興味があります。開拓団ではなく町に住んでいたようで、無事に家族4人で帰国できたものの、(父の)母と姉は間もなく亡くなったそうです。祖父の移住の決断に祖母は進んで賛成したのだろうか?当時は嫌でも反対できなかったのかも?帰国までどんな苦労があったのだろう?などと、最近考えるようになりました。
満洲とは何だったのか。お話を伺いたいと思います。〈吉塚あき子さん〉
明治の日清、日露戦争のつながりに満州問題があるとの思いが強くあり、明治政権を作った人たちの成り立ちを考えてみたく思います。〈黒澤正義さん〉
父は戦前の上海にいたことがありました。〈ヤマグチ カズコさん〉
忘れてはいけない歴史です。〈杏さだ子さん〉
1回目の招集で中国、2回目はビルマ、抑留2年のあと復員し生まれたのが私です。中国のどこへ行ったのか語らず、知らず~。調べたいとは思っていますが。〈竹内三輪さん〉
私の父は1942年に一家8人で満州に渡りました。戦後から今日まで生き残ったのは2人行方不明者1名しか残っていません。8月10日父の誕生日です。多くの開拓団員は、8月9日ソ連の参戦より8月10日から逃避行がはじますが、その戦争の傷は今でも残っていますが中国残留邦人の高齢化に伴い後世への伝いも減っていく中今回の鎮魂の夕べ2020とても有意義な集いと思います。応援したいです。〈泉田俊英さん〉
私の祖父が満洲で生まれたことを知って以来、満洲について興味を持つようになりました。現地の方々とどのように「共生(と言っていいのかわかりませんが)」していたか、お伺いできればと思っております。〈甲賀真広さん〉
私の母親も満州(大連)で生まれ、向こうの女学校に通っていました。日本人ばかりの環境で暮らしていたようです。大連は都会で、寒いのだけどオンドルがあって冬でも暖かだったこと。りんごがとても美味しかったこと。
戦争が激しくなると、竹やり訓練などがあったようです。戦後のドタバタでほとんど勉強はせず。終戦から2年後に引き上げてきました。オオカミが出るような田舎に逃げていた時には男装をしたり、父のいないときには拳銃を持たされたりしたそうです。また、お金を稼ぐために自分たちの洋服を売りに闇市のようなところで店を出しましたが、「洋服を試着してみる」と言い、着たまま逃げられたことがあるとのこと。そういう悪いことをするのは日本人だった・・・と言っていました。父親は引き揚げ船を待つ間、漁船に乗り込んでお金を稼いだり、ウオッカの工場に勤めたりしたそうです。それでも家族みんな無事に帰れて、あまりひどい目にも会わなかったようです。引き揚げ船の中での話、満州で(たぶんレイプされ妊娠した女性のこと)などを聞きました。私たちの世代では想像がつかない状況だと思います。今は母90歳ですが、もっと話を聞いておきたいと思います。〈船津あきこさん〉
歴史で何度も満州という言葉を耳にしますが、いまだに実態が掴めません。日本の実態を知るためにもその姿を知りたいと思っています。大変貴重なお話がお聞きできる機会を下さって、感謝しています。よろしくお願いいたします。〈堀北理枝子さん〉