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鎮魂の夕べ2020 体験談・メッセージ紹介3

私の満州について

 

王道楽土、五族協和の国に魅せられて夢を膨らませ渡満、私の親もその一人です。

そして私が日本国元号で昭和16年11月9日に生まれました。

いつかは生まれた所に行ってみたいと思い、満州を知ろうと各方面の方々にご迷惑をおかけいたしました事どうかお許し下さい。

周家営までたどり着く事は出来ましたが東山部落までは知る事が出来ません。

満蒙開拓平和記念館現館長寺沢秀文様のお導により、さいたま市大宮日中友好協会事務局長正田昌晴様を教えていただき正田様に連絡、さいたま市図書館にある昭和史の鮮烈な断面、埼玉県引揚の手記、上原林蔵様の満州引揚手記の中に私の父横嶋照栄の名前がまり驚いたのと存在を知り喜びで一杯でした。貴重な情報誠にありがとうございます。満州を諦めなくてよかったと思いました。

 

引揚の道のりは苦難の連続、略奪、暴行等身に迫る危険、悲惨をきわめていたのです。上原林蔵様の手記では内地(日本本土)まで373日かかったとありました。

私は記憶は無に等しいですが、引揚船の中、内地が見えたとの案内で祝と称し玄米がゆが一人ヒシャク一杯振る舞われた。コーリャンがゆでしたから美味かった。

 

昭和50年代に自然食ブームで会社近くで玄米定食店開店、すぐに行き食べましたが当時の味とは異なっておりました。帰郷し両親に話しましたら、お前は贅沢と言われ大笑いされました。

 

私にとって満州には終りがありません。

ただ、記念館寺沢様曰く「現地の人々は必ずしも日本人を好意的とは思ってはいない」という事を理解しなくてはいけないと思いました。

4年前、天皇陛下が満蒙開拓平和記念館にお越しになられました事は引揚者にとって大変嬉しい事でした。私にとっては記念館は心のふるさとのように思われます。〈横嶋照彦さん〉


わたしの満州

 

満州へ着いて二ヶ月、ソ満国境の綏芬河(すいふんが)近くの綏西(すいさい)は小さな部隊が駐屯し、小さな中国人集落がある寒村であった。丘陵の草原は草花が咲き乱れ、目もくらむ様な花野は夏の陽に輝いていた。8月9日夜半、低空飛行の爆音で目覚めた。軍人家族であった十歳の私と妹二人の母子4人は軍のトラックで避難が始まった。兵や資材満載のトラックは、途中懇願する一般邦人や開拓団と思しき人達を置き去りにして牡丹江(ぼたんこう)を目指した。硝煙の牡丹江で軍家族優先に編成されたと思われる約800人の満員列車は、8月15日吉林省通化(きつりんしょうつうか)駅に停車、通化は難民で溢れ受け入れ余地はなく、翌16日、北朝鮮国境に寄った小さな炭鉱の村・石人(せきじん)駅に着いた。

阿鼻叫喚の巷を彷徨った開拓団や他の人達とは比較にならぬ戦乱からの脱出であった。懇願していた人達の情景が今も目に浮かぶ。軍は目前の自分達家族を置き去りに出来たかと自問自答する。軍は既にその体をなさない程弱体化していたという。

石人は500人程の炭鉱関係者が居住し、中国人の小集落が点在する農村であった。我々約800人の婦女子の集団がこの地に留まる事になり、鉄条網に囲まれぎゅうぎゅう詰めの小学校で難民生活が始まった。懇願する人達を置き去りにし戦乱の巷をいち早く脱出したとはいえ、その後の難民生活は他の避難民と何ら差異はなかったであろう。治安も悪く生活手段の乏しい農村、着の身着のまま忽ち困窮を極め、翌春迄には200人近くが寒さや伝染病、栄養失調で亡くなった。働ける婦人達は廃坑近い炭鉱の選炭場での労務に、虚弱な母は耐えられなかった。

山の一軒家へ一人住み込み、炭鉱の選炭場、通いの下働き、豚の放牧等々何をやっても上手くいかなかった。間もなく母に次いで直ぐ下の妹も亡くなり、五歳の妹と二人になった。孤児たちがたむろし、おにぎりにつられて中国人と去って行った友。離散した人達や八路軍の看護婦として婦人達が大勢去って、残った弱小集団に最悪の事態が来そうな予感がしていた。地獄に仏の様な巡り合いがあって妹と二人帰国することが出来た。

平成2年、堰を切った様に墓参りを兼ねた満州への旅が始まった。葛根廟事件、麻山事件現場等々満州の各地へ。旅は九十数回になった。難民であったからこそ彼ら現地住民の心情も理解出来るのだが、思い知った外地での敗戦、自分の国ではなかったのだ。人それぞれに出会いがあり、運、不運もあり戦争の虚しさを思う。〈樗沢仁さん〉