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鎮魂の夕べ2020 体験談・メッセージ紹介5

はじめに 昨 2019 年 8 月に以前から訪問したかった貴「満蒙開拓平和記念館」にて、満蒙開拓集団入植の 歴史と経過を示す貴重な展示資料(通達、ポスター、手紙等)や写真に見入りました。10 日開催 された語り部定期講演会の勝野憲治氏は 1942 年に飯田町(現、飯田市)から一家で満州上久堅村 開拓団飯田屯に入植、敗戦で一家離散して両親と妹三人を亡くされ中国人家庭に引き取られ養豚 手伝いや子供面倒、八路軍通訳などの艱難を切々と語ってくれました。神奈川県から来た大学生 (団体)を含めセミナー室は満室で予定を超えて 2 時間以上、敗戦で中国人として生きるため日 本語と日本姓を捨て 1974 年 41 歳で帰国したものの中国語が全く通じず、二度母国語を亡失した 辛苦を経ながら悲惨な実体験を聴かせていただきました。

私の父は中国語通訳として奉天市(現、瀋陽市)に近い鄭家屯の街長(副町長?)であったた め街内日本人全員の帰国意思を確認した後に、満州生まれの姉(6 歳)と兄(4 歳)を連れ着の身 着のまま引き揚げて更埴郡松代町(現、長野市)の母生家に帰還したのは 1946 年晩秋だったよう です。昭和 22 年 3 月末に生まれた私に迷うこと無く信彦(信州の男子)と命名したと聴きまし た。

これも何かの縁かと思って 11 日開催の慰霊祭・鎮魂の夕べと交流会にも参加、スタッフ手作り の中国餃子を味わいながら各地から来られた方々や記念館運営に係わる方と貴重な交流をしまし た。戦争の悲惨さ、平和の尊さを学び、次世代に語り継ぐと共に国内外に向けた平和発信拠点と する、満蒙開拓平和記念館の趣旨に賛同し益々の発展を祈念しますと共に、改めて平和記念館の 寺沢館長始め皆様に感謝します。

 

主催する鎮魂の夕べ2020の趣旨とは異なるかもしれませんが、中国で昭和初期から満州国を経て終戦引き揚げまで生活していた父は多くを語らず、満州生まれの姉が残した体験談(手記)を添えてメッセージを送ります。〈和田信彦さん(2020年8月6日)〉 

 

 

鄭家屯での生活

伯父たちは皆、洪庵塾で学んだのだが、行かなかった私達の祖父次郎は、妻子栄(こはな)や長男の父岩雄を初め一家で満州に渡った。満州で薬草採集の会社を興した。しかし、祖父は早くに亡くなった。父は、大連外語専門学校へ。そして、鄭家屯での事業で財を成し、レンガ造り二階建ての大きな家を建てた。敷地は広大で、かなり大きな門とレンガ造りの塀の中には、借家が数軒あった。その中に、戦後も交流があった谷津家(現在、子孫は丸森在住)も住んでいた。しかし、母が嫁いでしばらくの間、上記の家は完成していなかったので、祖母や叔母達(馼、房子、治子)との狭い家での同居を強いられ、母は不満を感じていたようだ。しかし、祖母も叔母たちも皆優しかったと母は言っていたことがある。

居宅最寄図:鄭家屯新興区神社前

父は若年にも拘わらず町長をやらされていたので、朝には、ヨーロッパの貴族が乗っていたよ

うな幌付の馬車に御者が乗って門前に迎えに来た。4、5 歳の私は、領事館前まで一緒に乗ってい

って、そこで下ろされ一人で帰ってきたものだ。我が家の西隣の高い塀の向こうは小学校であり

(隣には中学校も? )、その先に領事館があった。鄭家屯は満蒙への入り口の街で満鉄の拠点であっ

たから、領事館初め諸設備が整っていた。当時は満鉄職員が多く、領事館も学校も 3 階建て( 2 階

建て?子供には非常に高い建物に見えた。)であった。日本が統治していた満州の都市では、建物

は、コンクリートやレンガ造りであり、すべて洋風であった。

当時の街の様子(奉天駅と浪速通り)

 

我が家からすぐ近くの神社は境内が広く、鳥居が大きかった。(子供の視点だからであろうと思 っていたが、父母や鄭家屯会の人たちも肯定した)ある時、弟康彦と二人で神社まで遠足に行くこ とにし

て、母におにぎりを作ってもらって出かけたものの、人出が多く、そこでおにぎりを食べ ることが恥ずかしくなって、家の玄関の横にある植え込みの所で食べていた。それをトイレの窓 から母が見つけ、大笑いされたことが思い出される。

叔母(子栄の妹、末方)からの縁談で、父は昭和 13 年に 12 歳年下の春日悦子と結婚、男児を早 産で失った後、私絢子が昭和 1 5 年に誕生。悦子の父、秀齋は鐘紡の技師であったので、悦子は 鐘紡の工場がある中国の青島(チントウ、日本が統治)で裕福に育ち、青島女学校入学。父親の名古 屋の転勤に伴って名古屋市立第一高等女学校に転入し卒業している。

兄が一人いるだけの一人娘で非常に気ままに育った悦子にとっては、上記したように 二人だけ のための新しい家が建ち上がっていない間、いろいろ不本意な生活を強いられた。しかし、絢子 誕生の頃には私達家族 3 人には広すぎる程の、レンガ造り 2 階建ての家が出来上がった。後に地 下室を作ったのだが、父が抱いて降りていってくれて「食べ物をここに一杯置けるよ」と言った のを覚えている。戦争を予測しての備蓄ではないと思う。単に、冬への備えはなかったか。その 頃、康彦は生まれていたが、赤子であった。

覚えていると言えば、春巻きの味である。あれが本物の春巻きなのだ。その地下室を造ってい る時であったのかどうかはわからないが、なにやら中国人が作業をしてくれていた。おやつとし て春巻きを出した。私も「おいしい!」と思って頬張った。皮にトウモロコシかアワの粉か?とにか く小麦粉だけでは出せない独特の風味があった。当時、日本人は下賎な食べ物として、あまり口 にしなかったようだが、現在、日本のどこの中華料理店に行っても、あの時の味に出会うことは できず、残念でたまらない。大工さん達が仕事をしているのを見て、中国人の春巻き売りの人が 門内まで入ってきたのを、母が買っていた。

裕福な暮らしであった。今でも玄関前で、和服で正装した祖母や叔母達との両親の写真、私が 応接間の大きなソファーで房子叔母に抱かれている写真、雛壇の前の写真等、豊かな生活を思わ せる写真を沢山保管している(写真は引き揚げの時に母がアルバムから引き剥がして持ち帰っ た) 。7 段のひな壇は父が大連まで行って買ってきてくれたそうだ。

鄭家屯居宅にて(昭和 20 年 3 月、父母姉兄は既に他界)

 

当時としては珍しい電話もあり、2 階の階段の上がり口近くの柱にかけてあった。従兄の春日輝基氏と電話で話をしたことを、月並みな表現だが昨日のように鮮明に覚えている。母が「ほら、輝ちゃんだから、輝ちゃんと言ってみなさい」というようなことを左側から言っていた。それに応じて「輝ちゃん?」と言ったことは覚えているのだが、返事がどんなものであったのかは覚えてないし、当時、輝基氏と遊んだ記憶も全くない。私は、ただ、機械が本当に言葉を返すのかどうかだけに気をとられていた。後年、輝基氏に話したら「そんなこと覚えているはずないわな」と大笑いされた。

 

鄭家屯からの引き揚げ

日本の敗戦に依り、急遽、日本人は本国に引き揚げなければならなくなった。夏場であるからと、腐敗を防ぐため母は酢飯でおにぎりを作った。鄭家屯からは無蓋車に乗せられた。大雨の日で、トランクを縦にして、その上に大きな男物の傘を立て、4 人が身を寄せ合って雨を凌いだ。尚、後年、独特な印象派画家香月泰男の伝記小説を読んだときに「ソ連からの帰途、鄭家屯からどしゃぶりの雨の中を無蓋車で運ばれた」の記述があった。同じ時空を共有していたことになる。鄭家屯はソ連の出入の場所であり、満鉄の一大拠点であった。

引き揚げ 思い出の中 、長い間逗留した鴨緑江の畔が特に記憶に残っている。ある夜、父が白いシーツを被って雪の降る中に出て行ったことがある。多分、指導者狩りが行われたのではないかと思うがわからない。昨年、テレビの映像で、私達が逗留したその場所が、たまたま映し出された。テレビはすぐ傍で、奈良県明日香村の高松塚古墳の内部と同じ古墳が発見されたことを伝えていた。改めて書くまでもなく、こちらが先に造くられたものであり、ここからの渡来人が高松塚を造ったのである。その塚から、私達が逗留した居留地跡と対岸の北朝鮮側の切り立った崖淵が見えた。当時は崖に沿ったその道路を、チョゴリ姿の人々が行きかうのが見えたものだ。決して人通りが多かったわけではないが・・・ 。あの地で、私達子供達は、結構いろいろなことを楽しんだものだ。野蒜取りや魚釣り、おにごっご。リーダーとなるお兄ちゃんやお姉ちゃんがいた。後年、鄭家屯会の集まりで、その方達ともお話して懐旧の情に浸ることができたのは、たった 1 度だけではあったが貴重なひとときであった。*書くことをためらったが・・・。 ある時、皆が「馬が流れてきた」と叫んでいた。しかし、それは、ふくれあがった人間の溺死体であった。鴨緑江の中央を流れていたので皆、ただ見送っていた。

鴨緑江の滞在を含めて 1 年半弱の引き揚げ道中の後、門司港から鉄道に乗って長野に向かった。この道中の思い出は、超満員だったということと、「今、海の下を走っているのだよ」という父の言葉だけだ。関門トンネルだ。長野駅には祖母のつねが出迎えてくれた。その時に持参してくれた蒸し饅頭の美味しかったこと!一センチ角ぐらいのサツマイモがところどころに頭を出していた。晩秋であった。長野駅から松代までの記憶は全くない。大した距離ではない。

 

鄭家屯会の集い

引き揚げの途中、夜道を歩いて体育館のような所で、大勢で雑魚寝をしたこともあるし、満天の星空の下で寝たこともある。その中で一番記憶に残っているのは、やはり、前記した鴨緑江の畔での長期間(晩秋、冬、春)の逗留である。長屋風の建物が何列か建てられていて、一家族一部屋が与えられた。入り口を入って左側に竃と棚、その奥にべッドのように高くなった 4~ 5 畳程の板の間。4 人が寝るのに不自由はなかった。この鴨緑江までの道のりは、幼い康彦などは大変だったと思われる。道中、父が調達してきた焼き鳥のような物を口にしたが、中国語が堪能であり、人当たりが良かった父だからこそと思わざるを得ない。かなりの財を持って出たらしく、困っていた人や鄭家屯の人たちに力を貸していたようだ。

終戦後日本が落ち着いてから、代表の何人かが「全員が欠けることなく引き揚げることができたのは和田さんのお陰である」と仙台までお礼に来てくださった。又、戦後長い間続いていた鄭家屯の集まりでは、私が出席した時に、皆さんが「和田さんのお陰で鄭家屯の人達は全員無事に帰ることができた」と口々におっしやってくださった。その鄭家屯の集りも、高齢化のために 2 01 2 年から開催されなくなった。〈山本絢子さん(2 0 1 3 年 3 月末)〉