二人の姉がいたこと
私の父は昭和18年2月に大頂子東仙道開拓団の先遣隊員として渡満した。警備指導を担っていた。翌年5月、母は2歳になったばかりの長女克子を連れて他の家族と共に入植した。12月には次女寿美惠が生まれた。一家は4人になり、父母は他の団員達と共に新天地で夢を実現させるべく働いたのだろう。「大頂子東仙道開拓団之顛末」には入植は昭和20年5月末まで続き、名簿には107名の名前がある。しかし、他国での開拓は敗戦とともに終わった。
昭和20年5月頃から開拓団員の現地招集が始まり、父も7月23日に、また団長も8月10日に召集された。ソ連が侵攻し逃避行が始まる8月14日には、団は高齢の男性、女性と子どもたちのみになっていた。悲惨極まる難民行の末、昭和21年春までに半数以上の団員が亡くなった。幼い子供たちは全員亡くなった。
寿美惠は9月26日に、克子は10月4日に、母は乳を飲ませることもできず、食べ物も着るものも、薬もなく、伊漢通の収容所で二人の子を腕の中で亡くした。克子は3歳半、寿美惠は9カ月だった。
私が子供の頃、父母が戦争の話をしてくれた記憶はない。しかし、昭和41年1月に残留されていた女性が家族と共に帰国され我が家へ来られた。それから、昭和55年にも残留されていた女性が一家で永住帰国された。両親たちも方正の日本人公墓へ墓参した。中国での話を聞き、開拓団の碑の建立、また発行された本を読む中で、開拓団の出来事が私の身近になってきたように思う。
107名の内亡くなられた方は58名にもなる。国策により他国へ渡った父母たち、何も知らず短い一生を他国で終えた姉たち。母は晩年脳梗塞を患い、しだいに心身が不自由になっていく中で、堰を切ったように姉2人をこの手の中で死なせてしまったこと、父への謝罪の言葉などを涙を流しながら口にした。母の戦争は60年過ぎても終わっていないと強く感じた。
姉たちが生きて帰ったなら私は生まれてこなかっただろう。私に克子と寿美惠の文字を付けた両親の思いを最近考える。私の中に子を思う心、平和を祈る思いが伝わっていると感じる。〈領家克恵さん〉
鎮魂の夕べ2020へ多くの体験談・メッセージをお寄せいただきありがとうございました。
一人一人の体験、思いを繋いでいきたいと思います。