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寄贈品 №24

桂徳子さんからの手紙

1950(昭和25)年2月13日差出 サイズ 27.5×20、3枚

差出人 桂徳子(1918年生まれ・東京都、仁義仏立(じんぎぶつりゅう)開拓団)

 

仏立開拓団で渡満し残留婦人となった桂徳子さんが、日本の家族にあてて出した手紙

1918(大正10)年生まれの桂徳子さんは、仁義仏立開拓団*1 に参加し、1944(昭和19)年に渡満しました。

1年後のソ連侵攻と日本の敗戦で、仏立開拓団の人たちはばらばらになり、多くの命が失われました。

徳子さんは内蒙古の中国人に助けられ、その後結婚、子どもを授かります。夫になった梁万田さんは失明しており、暮らしぶりはとても貧しかったようです。

ここで挙げた手紙には、遠い中国で想像もできぬほど貧しく、冬でもぼろぼろの着物を着てみじめな生活をしていると綴っています。そして、着物一枚、魚やスルメなど何でもいいので分けてもらえたら一家全員どんなに助かることかと訴えます。彼女の境遇は1951(昭和26)年3月の朝日新聞にも取り上げられていますが、徳子さんが故郷へ帰ることはありませんでした。現地で病気になり、貧しさゆえ医者にかかることもできないまま亡くなったという知らせが届いたのです。

どんなに苦しくても、助けてくれた中国の夫を見捨てようとはしなかった徳子さん。現地で親子3人生きていこうとする、必死な想いが伝わってくるようです。

 

このお手紙は、徳子さんの姪にあたる方からご寄贈いただきました。おばあさん・お母さんから引き継がれてきた、徳子叔母さんの生きた証を、多くの人に知ってもらいたいと。

 


〈本文書き下し文〉

ほぼ原文通り。読みにくいところは適宜ふり仮名や句読点、説明を加えた。本文縦書き

 

 尊母

 懐かしき御母上殿 遠く貴女様の膝下を離れて六年の月日を独り遠く満洲の北内蒙古の一農村の妻として暮して居ます。本日はからずも(図らずも)命を永らへて貴女にお便り出来ます事を何と感謝致します事やら。御母上殿外姉弟妹方日々如何生活成されて居りませうか。八一五事変(日本の敗戦)以後の日本の情報も知らず過ぎし五ヶ年間皆々様も大変な心苦を味はって来られた事とお察し申し上げます。如何と申しましても日本人の皆様とて日々の労働はをこたりない(怠りない)事と存じ上げます。始めに何から報告申したら良ろしいでせうか。急の事とて御通知したい事が一杯です。お懐かしき皆々様 私は八一五事変以後、開拓団全部は軍隊と一緒に逃難(避難)致し、命を得た者はわずか十六ヶ人と知らされます。私と一緒に逃げた人には全部命を失ひました。本当に不思議にもたった独り私は哈拉黒のやはり原開拓団の地に生きて居ます。原信田一家、杉本一家、村越一家方々は勿論のこと全部悲しくも命を失ひました。たった独り私の様な者が生き延びたとて何になりませう。事変当時誰が生きられると思ったでせう。

私は本部の事務員方と一緒に逃難して興安へ行き、他の人々は悲しくもとらはれて命を失ふ一方、私は現在の良人に助けられて逃げ、現在に至るような始末で御座居ます。以後私は全く夢にも想像出来ぬ困苦な日々を過し、農業は出来ず以後三ヶ年夫は失眼して、貧しい一家は益々貧しく、東京で私の知って居る乞食にもこんな困難な生活をして居る人は見た事がありません。毎日寒い寒い風が吹いて雪が降っても、私はたった一枚のボロボロのズボンをはいて半袖のシャツを着て、本当に泣くにも泣けないみぢめな月日を送ります。十一月頃になってやっと何とか着物を着、五月頃に冬の着物をほどいてつぎはぎだらけの布を身にまといます。現在は二才の男子(名は桂林)を得て、子供の父親は何も出来ませんので、私ひまをみては近所の人々の編物等をして、貧しい乍らもどうにか生活を過して居ります。私は当時助けられた命の恩人として、どんな困難な生活にも現在の人を捨てることは出来ません。失眼しても永い一生の間にお金さへあればかならず全快します。悲しい事にお金がない。私は働きたくても子供は余りにも小さくて、全く運の悪い時には何から何まで運が悪く行くものです。皆々様はどんな生活をしていられる事でせう。お金があったら子供と一緒に皆々様のおそばへ帰り度く思いますが、現在の処は致し方有りません。

御母様又糸子姉様康子様、誠におはずかしく勝手なお願ひですが、貴女方の着物の一枚一〇○○です。お分ち被下いますれば私は本当に本当に有難く、私の一家はどんなにか助かる事で御座居ませう。他に尚海魚・スルメ・タコ・海草等どうぞどんなものでも良ろしう御座居ます。皆様のお暮しが私の様に万困難でしたらお助け願ひ度く、深く深く御願ひ申上げます。

御母上様貴女は今年たしか七十一才の御老体ですネ。どうぞ御達者で御暮し被下いませ。尚藤江の伯母様伯父様御存命でせうか。以後又御便り差上げませう。このお便りします用紙も近所の方から頂いたものなのです。子供が私のそばで泣いて泣いてお便りも満足に出来ません。どうぞ皆々様御健全で御暮し被下る事御願ひ申上げます。

 

御母上様他皆々様一同

三十九年二月十三日*2

哈拉黒努国克保立村西保安屯 

梁万田家 徳子

*1 東京都渋谷区乗泉寺の本門仏立宗信徒から成る転業開拓団。興安南省哈拉黒(はらへい)に入植、1945年8月時点で約700名が在籍していたが、ソ連軍の攻撃や自決などにより生還者は数名~10数名と言われている。

 

*2 中華民国歴で書かれており、39年は西暦1950(昭和25)年にあたる